現在の本堂は天保11年の火災から10年後に再建された建物で、明治21年に甲武鉄道(現在の中央線)建設のため北へ移り、その後昭和44年ホール新築にあたり現在の場所へ移築しました。御本尊は千手観音座像(推定 南北朝時代作・1300年代)です。以前は、毎年8月16日に縁日が行われ、村の男女が、この縁日がきっかけで結ばれる事が多かったことから「出逢い観音」といわれてにぎわっていました。
24名以下で行う中規模の葬儀に適した斎場。段差のないバリアフリー設計なので、お体の不自由な方も安心してご利用いただけます。
ここに安置されている閻魔大王は、本堂へ登る参拝者を睨みつけています。閻魔様は冥界の大王で、死者の生前の悪行を裁きます。両脇には閻魔様を補佐する書記官が並んでいます。
天和2年(1682年)近在の村人が、飢饉の折に亡くなった方を弔うために奉納されたと伝えられます。
平和を祈願して作られ、朝昼夕と毎日ついておりました所、作家の上林暁(かんばやし あかつき)先生が、「光明院の鐘の音」と題された随想を文芸春秋に発表され、有名になりました。御遺族の希望で光明院で葬儀が行われ、沢山の文士の方が鐘を鳴らし冥福を祈りました。
小張吉兵衛さんが建立された阿彌陀様、観音様、勢至菩薩の4体の大きな石仏をいいます。吉兵衛さんが両親と奥さんを相次いで亡くし、悲しみをまぎらすためにお地蔵様を建てました。建てた当時は普通のお顔でありましたが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった。と伝えられています。
光明院東門より境内に入った場所に位置する共同墓地。どなたでもお参りすることができます。
光明院を東西に横切る自由通路。通路の周囲には季節の花が咲き、通行する多くの人を楽しませています。また、「荻窪」地名の由来となった荻も自生しています。